2009年12月17日

瀬戸内海概念

「瀬戸内海」概念が今日のようなものとして確立される契機となったのは、明治期に欧米人がこの海域をThe Inland Seaと呼んだことによる。欧米人がこのように呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼び、これが明治時代の後半には人口に膾炙していったのである(ただしこの時期の「瀬戸内海」は明石海峡から関門海峡までの海域を指していることが多く、現在のようなより広い海域に「瀬戸内海」の概念が拡張されるには、さらに時間を要した)。

日本人による最初のまとまった論考は小西和の『瀬戸内海論』(1911年)である。この中で小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。小西は「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、帝国議会に国立公園の設置を建議した。この建議を容れて国立公園法が制定されたのは1931年で、1934年3月16日の第1回指定で瀬戸内海は雲仙、霧島とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となった。
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瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海である。平均水深は38メートルであるが、全体的な傾向としては東に行くほど浅くなっている。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されており、深いところでは水深454メートルもある(速吸瀬戸)。

瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2メートル以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は一般に言って極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」である。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。

2009年12月01日

銃弾によるワシ類の鉛汚染

銃弾によるワシ類の鉛汚染
北海道のエゾシカ猟に代表される鹿猟では、散弾銃にスラッグ弾を込めたもの、あるいはライフル銃が用いられる。この鉛でできた実包で鹿を撃ち、被弾部位を含む残滓を放置すると、ワシ類やカラスなどがそれを食べる。この際、被弾部位にちらばった細かい鉛弾が砂のうに蓄えられ、散弾による水鳥の鉛中毒と同じように、ワシ類でも鉛中毒が引き起こされる。
対応として、鉛以外の金属(銅、タングステンポリマー等)を用いたスラッグ弾あるいはライフル弾の実包が製造されている。北海道では鉛弾の利用は全面的に禁止されており、宮城県などの地域でも使用禁止が広がってきている。北海道では、平成10年度に回収されたワシの死体のうち約80%が鉛中毒だったが、平成17年度にはその比率が10%未満に減少している。完全に0にならない理由として、違法な狩猟者の存在や、既に半矢で体内に鉛弾を有している個体の存在が挙げられている。
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個体数のバランス崩壊
生態系は、よく知られる食物連鎖のほか、未解明のものも含めて極めて複雑なメカニズムによって各種生物の個体数や生息地域のバランスが保たれている。しかしこのメカニズムに人為的な介入が加えられると、バランスが大きく崩壊する場合がある。狩猟鳥獣の生態数は、狩猟者が狩猟期間終了後に提出する種別毎の捕獲数や捕獲場所の情報も含めて調査されており、著しく減少した場合は、一時的に捕獲禁止規制が実施され、生態数の回復が図られる。しかし実際には狩猟圧よりも生息環境の悪化が捕獲数減少を引き起こしているという意見もある。キジやヤマドリなどはメスの捕獲が禁止されており、基本的に生殖上の余剰オスを狩猟する形になっている。これを調査するために猟期初期のオス・メス別の出会い数調査も行われている。

2009年11月27日

冷走魚雷

推進に内燃機関を持たない方式の魚雷。草創期の方式。

草創期に成功を収めた推進方式のひとつに圧縮空気を用いたものが挙げられる。圧縮空気は2.55Mpaで保管され、その空気をピストンエンジンに送ることで1機のスクリューを毎分100回転させた。約180mを平均速度6.5ノット(時速12km)で推進するものであった。1906年にWhiteheadが製作した魚雷は1000mを推進し、平均速度は35ノット(時速64km)に達する。高圧の空気が膨張すると周りの熱を奪い、機関が凍結する問題が生じたが、海水を使って暖めることで解決。結果として性能向上につながった。

アルコール(最初はエチルアルコール、後にメチルアルコール)と圧縮空気から蒸気を発生させて推進力とする方式。圧縮空気のみの場合と比較してスピードは増したが、航跡がはっきりしてしまうというデメリットがあった。[1]アルコール以外に、過酸化水素の分解によって発生する蒸気を用いるヴァルター機関を搭載する魚雷も開発されている。
内燃機関による推進を行う方式の魚雷。1904年頃から開発が始まった。
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燃焼で発生する熱を水で冷却していたが、冷却の過程で発生した水蒸気をエンジンに送り込んで推進に活用する方法が見出された。蒸気を利用する魚雷はウェットヒーターと呼ばれ、蒸気を利用しない形式はドライヒーターと呼ばれる。ウェットヒーター式魚雷は第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて使用された。

燃料をエンジンで燃焼させて推進する魚雷の航続距離は、燃料のほかに酸化剤の搭載量にも大きく影響される。酸素を酸化剤とする場合、旧来の圧縮空気を用いた形式では燃焼に不要な窒素などが多く含まれているため(酸素は21%程度)、純粋な酸素のみを圧縮することでより多くの酸化剤を搭載することが検討された。

2009年11月13日

江戸時代では

江戸時代では、武士同士による激しい戦はほとんどなくなり、合戦における敵味方の区別のように実用的だった家紋の役割は変化していき、一種の権威の象徴となっていった。

士農工商という身分が明確に分けられていた階級社会があった江戸時代では、家紋の用途は相手の身分や家格に応じて自分や家族の身なりを正すためであったり、家の格式を他人に示したりする、相手の身分を確認したり示すといった目的に変化した。

また日本では、一般庶民も広く家紋を所有し使用した。百姓、町人、そして役者・芸人・遊女などといった社会的には低い階級に位置づけられた者までが、自由に家紋を用いたのである。これは貴族などごく限られた者しか家の紋章が許されないヨーロッパ各国とは対照的である。
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一般的な百姓・町人は苗字の公称が出来なかったが、家紋を用いることは規制されてなかったため、家・一族の標識として機能していった。

さらに江戸期には、「羽織」や「裃」など礼装・正装の衣服に家紋を入れる慣習が一般化する。元禄時代に入ると、人々の生活は次第に華やかなものになっていき、家紋を持っていなかった人々も家紋を必要とする機会が生まれ、豊臣秀吉の吉例によって「五三の桐」紋が下層庶民に好まれた。また一般の家紋も装飾化され、武家や庶民が用いる家紋も華美・優美な形に整っていった。そのため、左右や上下対称になった家紋や、丸で囲んだ家紋が増え始めたのはこの時期であると考えられている。

2009年11月02日

避雷器の選択

避雷器のサージ処理能力には全て限界があり、その処理能力を超えるサージについては無力である。従ってまずは、雷を受けても、回路にできるだけ大きなサージが生じないように、避雷針、架空地線、接地系統(アース系統)などの「導雷系統」を総合的に検討・設計する必要があり、しかる後に、サージから保護しようとする機器のサージに耐え得る能力(サージ耐力)、回路の状態などの要素を勘案して、最善となるものを選択することが肝心である。
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特にアース系統は重要で、例えばビルなどであれば、従来の分離アースはもちろんのこと、新しく規格化された一点接地(統合接地)でも、その設計に何らかの不具合や限界があると、ビルの避雷針に雷の直撃を受けた場合、アース側からその雷サージが避雷器に逆流、避雷器を破壊、機器を損傷する問題が知られている。これを逆流雷という。逆流雷により避雷器が壊れたからといって、アース系統を見直すことなく、避雷器のみをさらに大きなサージ電流を処理できるものに交換すると、今度は逆流した雷サージにより肝心の電力引込系統などを破壊する結果ともなりかねない。また、総合的に最善の対策を行ったとしても、雷の被害を完全になくすことは現在のところ不可能であり、総合的なフェイルセーフ設計が極めて重要である。

すなわち避雷器の選択、使用については、相当に専門的な知識を必要とすることから、専門とするメーカーや施工業者、コンサルタントなどと事前によく協議することが肝心である。

2009年10月23日

学士という概念のはじまりは

学士という概念のはじまりは唐における学術・研究・教育分野の官職名として成立し、日本では律令制の導入に際し、その原型であった唐の官制に沿い皇太子付教育官として東宮学士の官職が設置されたことによる。明治以降、東宮学士の官職は廃止されたが、欧米のBachelorに相当する学位・称号として「学士」という語が充てられることとなった。

学位制度草創期には、学士号の扱いをめぐって扱いが迷走した。1872年(明治5年)8月3日に公布された学制(明治5年太政官布告第214号。1879年(明治12年)に廃止。)は、大学卒業者に学士の称号を与えることとした。さらに、翌1873年(明治6年)4月の条文の追加により、専門学校の学科を卒業した者にも学士の称号を与えることと規定された。
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1878年(明治11年)に、東京大学 (1877-1886) で法学士・理学士・文学士・医学士・製薬士の5つの学士の学位が設けられ、実際に翌1879年(明治12年)からは、同大学の卒業生に学士の学位が授与されていた。また、工部大学校の卒業生の一部に対しても、同様に学士の学位が与えられていた。

ところが、帝国大学令施行後は、学士号は学位ではなくなり、称号と位置付けられることとなった。そして、与えられる対象者も、原則として帝国大学分科大学の卒業生に限られることとなった(例外は札幌農学校)。

2009年06月22日

社会文化的進化(英: Sociocultural evolution)は

社会文化的進化(英: Sociocultural evolution)は、長期にわたってどのように文化や社会が発展したのかを記述する、文化進化や社会進化についての理論を表す包括的な用語である。このような理論は典型的には技術、社会構造、社会的価値といったものの関係や、なぜそれらが時間の経過と共に変化するのかを理解するためのモデルを与えるものであるが、実際には多種多様であり、変異や社会変化のメカニズムを詳細に述べるものもある。

19世紀の多くの社会文化的進化研究や20世紀のいくつかの研究は、人類全体の進化モデルを示すことを主眼としていた。その場合、様々な社会は社会発展の異なる段階にあるとされた。現在でも世界システム論のアプローチにこの考え方の延長が見られる。もっと最近の20世紀の研究の多くは、個別の社会に特有の変化に焦点を据えており、社会進歩のような一方向への変化という概念を斥けている。社会文化的進化理論の枠組は多くの考古学者や文化人類学者の仕事で用いられている。社会文化的進化についての現代的なアプローチとしては、ネオ進化論や社会生物学、近代化の理論、脱工業化社会の理論などがある。

人類学者や社会学者はしばしば、人間には生来社会的傾向があるが、人間の社会行動の各々は非遺伝的な原因と力学にもとづいている(言い換えればある社会環境のもとで社会的相互作用によってそのような行動が学び取られる)と考えている。それぞれの社会は、社会的(=他の社会との相互作用)かつ生物的(=天然資源や自然的制約との相互作用)な複合的環境のもとで存在しているのであり、こうした環境に自己適応している。従って必然的に全ての社会は変化することになる。
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トリックアート
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高血圧症
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初期の社会文化的理論はオーギュスト・コント、ハーバート・スペンサー、ルイス・ヘンリー・モーガンらによってほぼ同時に唱えられた(彼らの理論はチャールズ・ダーウィンの進化論とはまったく関係ない。ダーウィンの理論が普及するのは19世紀後半から第一次世界大戦末頃である)。彼らの19世紀的な単系的進化理論によれば、社会は原始的な状態から開始され、時間が経つに従って徐々に文明化していき、西洋文明の文化・技術水準に到達するまで進歩していく。ある種の形態の社会文化的進化理論(主に単系的進化理論)は悪評高い理論を導き、過去には植民地主義や奴隷制などのすでに行われている政策や優生学のような新しい政策を正当化するために用いられることもあった。

多くの19世紀的研究やいくつかの20世紀的研究は、人類を単一の存在とみなしたうえで人類進化のモデルを提示しようとしていた。これに対して20世紀の研究の多くは、多系進化モデルのように、個別の社会に特有の変化に焦点を合わせている。また一方向的変化という考え方(定向進化説、目的論的進化など)も斥けられている。多くの考古学者は多系進化の枠組で研究している。社会変化についての他の現代的な研究としては、ネオ進化論、社会生物学、二重相続理論、近代化論、脱工業化社会論などがある。

2009年06月05日

主君と主従関係を結んで軍事的奉仕をおこなう

騎士(knight)とは、主君と主従関係を結んで軍事的奉仕をおこなう戦士階級の総称である。一般には小領主のことが多く、直接的な軍事担当身分であった。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いに際し、フランク王国の宮宰カール・マルテルが騎士制度を創設したことが嚆矢とされる。

中世ヨーロッパにおいては重装騎兵が戦闘の主役であり、そのためには優れた技量と精神的、肉体的な鍛錬が必要だとされ、その資格を有するものに「騎士」の称号を与えたのである。
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騎士になるにはまず、7歳頃から小姓(ページ)となり、主君に仕え騎士として必要な技術を学び、14歳頃に元服すると従士(スクェア)となり、実際の戦闘にも参加するようになり、一人前の騎士と認められると主君から叙任を受けることとなった。叙任の儀式は基本的には、刀礼(主君の前にひざまずいて頭を垂れる騎士の肩を、主君が長剣の平の部分で叩く)というものだが、この儀式を経て始めて長剣を公然と帯びることが、すなわち新騎士を戦闘員として公的に認知されることを意味していた。騎士の戦士としての本来の役割が薄れると、かえって叙任の儀式は複雑化して、宗教的意味合いや騎士道精神が強調されるようになった。騎士道精神とは、勇気、名誉、忠誠、正義、貴婦人への敬慕などの総称であるが、これは騎士社会内部に適用するものであり、農奴や異民族、異教徒にこの精神が発揮されることは概してなかった。

当初は騎士は叙任されるもので、世襲的身分ではなかったが、騎士としての装備を維持する必要から封土が与えられた層に固定され、やがて男爵以上の貴族の称号を持たない層に対する称号となった(ナイト爵)。

2009年05月01日

秀康の武将としての器量

秀康の武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。一方で江戸城内でたまたま出会った上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼を以って景勝に上座を譲ったともいう。

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同様の逸話は徳川秀忠に対してもあり、福井から江戸に向かい、秀忠が出迎えた折、地位の上下を守ろうとする秀康と長幼の礼を守ろうとする秀忠が互いに先を譲り合い、結局江戸城まで馬を並べて進んだといわれる。
鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、関所で止められたことに激怒し、関所を大筒で破壊して通行したことがあるといわれる。が、秀康は徳川家中で別格扱いであったため関守が一方的に罰せられたという。
家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多忠勝と本多正信の両名は秀康の後継を支持した。秀忠には大久保忠隣しか支持が無かったことからも、秀康の器量が徳川家臣団からも高く評価されていた事の例とされる[要出典]。
秀吉の人質時代、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。
秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。
秀康は弟の秀忠が徳川氏の家督を継いだとき、伏見城代を務めていた。出雲の阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、こう漏らしたと言う。「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」[要出典]。
秀康は、家康に生涯を通じて冷遇されたことから、養父の秀吉をむしろ敬慕していた。そのため、豊臣秀頼のことを弟のように可愛がり、「幕府が豊臣を攻めたら、自分は秀頼を助けて大坂城に入る」と述べたという。
石田三成とも親交があり、三成失脚時、領地まで護送した礼として名刀・五郎正宗を譲り受けた。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている。
秀康には法号が二つある。はじめは孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士である。秀康は生涯を通じて家康に冷遇されたことを恨み、死に臨んで徳川氏と訣別するため、徳川氏の菩提寺である浄土宗の寺ではなく、結城氏の菩提寺である曹洞宗の孝顕寺に葬るように遺言した[要出典]。その遺言に秀康の家臣団は従ったが、後に秀康の遺骸は浄土宗の浄光院に改葬され、法号も浄光院殿森岩道誉運正大居士と改められた。
秀康の専用武器として知られているのは天下三名槍の一つで駿河嶋田の鍛冶師義助の傑作御手杵である。養父結城晴朝から譲られたこの槍は全長210cm、槍身長138cmもある大身槍で外見上は槍というよりも大剣に近い。

2009年04月17日

オルレアン家

オルレアン家(オルレアンけ、Maison d'Orléans)はフランスの公爵家(オルレアン公、duc d'Orléans)。ヴァロワ家支流とブルボン家支流があり、国王に嫡子がいない場合に王家に後継者を輩出するなど重要な位置づけにあった。王位継承者、王弟などが名乗っている場合が多く、王家とも密接に関わりをもっていた。

ヴァロワ=オルレアン家とブルボン=オルレアン家の2つの支流があるが、ヴァロワ家は主に2家、ブルボン家は主に3家の計5つのオルレアン家が存在した。通常、単にオルレアン家と呼ぶ場合には最後のものを指す。
ヴァロワ=オルレアン家 [編集]
1328年から1589年までフランスを支配したヴァロワ家からは、2つのオルレアン家が誕生している。

最初のオルレアン家は、ヴァロア朝初代フィリップ6世の息子でありジャン2世の弟にあたるフィリップによって1344年に創設された。しかし、1人も子が出来ずフィリップの死去と同時に断絶する。

2つ目のオルレアン家は、シャルル5世の息子ルイによって1392年再興された。ルイ11世の娘と王命により結婚していたルイ・ドルレアンの孫が、世嗣を残さず急死したシャルル8世の後を継ぎルイ12世となる。その後もオルレアン公の爵位は王族に授爵されるが、アンリ3世の暗殺によりヴァロワ=オルレアン家は断絶する。

第1ヴァロワ=オルレアン家当主 [編集]
フィリップ(1344年 - 1375年)

第2ヴァロワ=オルレアン家当主 [編集]
ルイ1世(1392年 - 1407年)
シャルル(1407年 - 1465年)
ルイ2世(1465年 - 1498年) 1498年に国王ルイ12世となる。

ブルボン=オルレアン家 [編集]
1589年からフランス革命・ナポレオン時代などを挟み1830年までフランスを支配したブルボン家からは、3家誕生している。

3つ目のオルレアン家は、アンリ4世の子ニコラが1607年にオルレアン公となるがわずか4歳で死去し断絶した。

4つ目のオルレアン家は、先のニコラの弟にあたるガストンが再興させるが結局、子が出来ないまま亡くなり、再度断絶している。

5つ目のオルレアン家は、ニコラ、ガストンの兄にあたるルイ13世の息子フィリップ1世が再興する。フィリップ1世から数えて5代目にあたるルイ・フィリップは、1830年に起きた7月革命によってフランス王位につくが、18年後の1848年に起きた2月革命により退位し、イギリスに亡命。このオルレアン家は現在も続いている。

第1ブルボン=オルレアン家当主 [編集]
ニコラ(1607年 - 1611年)

第2ブルボン=オルレアン家当主 [編集]
ガストン(1626年 - 1660年)

第3ブルボン=オルレアン家当主 [編集]
フィリップ1世(1660年 - 1701年)
フィリップ2世(1701年 - 1723年)
ルイ(1723年 - 1752年)
ルイ・フィリップ1世(1752年 - 1785年)
ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(1785年 - 1793年) フィリップ・エガリテを名乗る。
ルイ・フィリップ3世(1793年 - 1830年) 1830年に国王ルイ・フィリップとなる(在位:1830年 - 1848年)。
フェルディナン・フィリップ(1830年 - 1842年) 第1王子、オルレアン公の称号を継承。

オルレアン派王位請求者 [編集]
2月革命によりルイ・フィリップが退位した後、ブルボン=オルレアン家当主は正統派の王位請求者(ブルボン家宗家、後にスペイン・ブルボン家(カルリスタ系))と競合しつつ、現在まで名目上のフランス王を称している。その支持者はオルレアニスト(オルレアン派)と呼ばれる。

ルイ・フィリップ(1848年 - 1850年)
パリ伯フィリップ(フィリップ7世、1850年 - 1894年) フェルディナン・フィリップの子。
オルレアン公フィリップ(フィリップ8世、1894年 - 1926年) パリ伯フィリップの子。
ギーズ公ジャン(ジャン3世、1926年 - 1940年) パリ伯フィリップの弟シャルトル公ロベールの子。
パリ伯アンリ(アンリ6世、1940年 - 1999年) ギーズ公ジャンの子。
パリ伯兼フランス公アンリ(アンリ7世、1999年 - ) パリ伯アンリの子。現オルレアン家当主。

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